稽古日誌

稽古日誌2019年12月9日

桜田 燐

人間の学習能力って凄いと思います。

脳だけじゃなく、身体の状態記憶。

慣らすうちに慣れていく。慣れたことは気にしなくなる。段々と忘れて盲目的になっていく。もしかすると自分が無意識のうちにフィルターをかけているのかもしれない。無意識というか、本能的に。

危機察知能力と言った所でしょうか。自分にとっての脅威を何か感じ、フィルターを張る。

そりゃ某アクション俳優なら話は変わったかもしれません。だってあの人、常に危険と隣り合わせだし。確か撮影の合間で首折ってたはず。あれテープでまわし撮りしてんだからマジ凄いよ。決死迫る表情や緊張感に納得の嵐。

しかし、今回の台本はマフィアのお話ではなく恋愛のお話。ラブストーリー。

そんな、自分の命に危険が訪れるような話か?笑

まあ、人が何を恐れているかなんて他人の私には分かりっこないかもですが。

楽しいのは強い。

しかし履き違えれば落とし穴直行。

最近思うのは、やはり相手役と対するなら全身全霊で。そらせや。じゃなきゃ普通に失礼。ただ、全力全開とは違う。こういってみると力のパーセンテージってものがあるなと感じられます。

全力、のうちの何割か、みたいな。出力を調節する的な。

それに余計なものを足すと、何だか違う。

どれだけ自分の人間力で闘えるか。

役が立ってるか役者がやってるか、その見え方の匙加減ってのはある種そのへんとも言えるし、そこで「リアリティと習慣」の話が繋がる。

どれが面白いかなんて、明白だ。

誰も役者が歯磨きを右手でする習慣の話なぞ興味はない。強いて言うならその理由の方が興味を惹く。

もしかすると親族又は良く思っていた人間で亡くなった者がいて、その者の形見として習慣をわざと得ようとしたのかもしれない。

それともその歯ブラシは右手でしか磨けないものなのかもしれない。右手でする方がよく磨けるのかもしれない。

利き手は左手だけど他人にそれを馬鹿にされ隠れたところで一生懸命右で磨いているのかもしれない。人の利き手をいちいち馬鹿にするやつおらんやろうけど。

まあ、こんなふうに考えてみると面白い。

物事には必ず理由があって、傍からみたら意味不明でも当人にはちゃんとした?(大事な)意味が含まれている。それが面白い。

あれ?もしかして脱線した?

よっしゃー。通常運転ですね。

何が言いたいかって、学習能力の話です。

物は使いよう。そうそう、使いようなんですな。逆手に取ってしまえばよいのです。ただそいつを使うには扱い方を心得ること。どうやったら扱えるのか?データの上書き。など。

人間はマルチタスクが出来ないという話をしました。

それを利用すればいいのです。そう考えればどんな都合の悪いことでも不利点ばかりではない。物事もこう考えると熱意が湧いてくる。

ただ、今回私の悪い所が顔を出したな。

よっ久しぶり。最近頑張ってたからな。ちょっとぐらい隠せなくったって大丈夫さ。人間である事の証明と思えばなんてことは無いっ!てへぺろ!

間違いなく言えることは、公演終えれば必ず見えるものがあるし分かることもある。稽古で分からず本番で分かることはある。本番で得るものは多いと思う。

見えずとも良い。それが結果なのだから。むしろその結果にこそ向き合うべきである。

神のみぞ知る?

いいや、我々は既に知っている。

気付いていないだけなのだ。

藤子 真帆

脚本が生まれた際、その脚本の最初のお客様は、ありがたい事にわたしたちです。

初め、新鮮で純粋な感想を抱きます。

けれど、わたしたちは制作側に居るので、その後どんどん読み込みます。

抱く感想や、想像される背景などが深まっていきます。

それは、わたしたちにとってはきっと、必要なこと。

けれど、そのまま制作を続けてしまえば、「乗せ過ぎてしまう」のだと、凉生さんとのやり取りの中で感じました。

わたしたちは、公演をご覧になるお客様がたに、「こう感じてください」と押し付けたいわけではありません。

脚本を読んだわたしたちが感じたような、「新鮮で純粋でその方ならではの何か」を感じて、楽しんで頂ければ嬉しいなと思っています。

ですから、「乗せ過ぎて」しまうと、かえってそれを邪魔してしまうのだろうという事が判り始めました。

脚本を読んで、読んで・・いくら読んでも読みすぎる事はないと思いますが、

脚本を読む同じ数以上に、「お客様がたは、脚本を読んでいないのだ。」と意識することも、重要だろうと思いました。

もしも、皆さんの言う「集中する」「その場に居る」という事と、わたしが演技中に感じる「夢中で楽しい」感覚とが同じことを指しているのなら。

わたしは徐々に、自分で「夢中で楽しい」状態に向かう事が出来るようになってきた気がします。

皆さんのご意見や、ましてや演出さんのご指摘は、絶対にたいせつです。

真摯に聴き、取り入れて次に臨んでいけるよう努めています。

その上で、いざ演技の<最中だけ>は、誰かの指摘や必要そうな何かや、自分で考えてきたことなどの殆どを、かなぐり捨てるかのような勢いで、「ただその時やりたいようになればいい」のかもしれないと思いました。

もちろん、最低限「今、自分は役である」と認識したうえでですが。

更にもちろん、その演技に対してのご指摘は、また、演技に入るまでに向き合います。

ちかごろ、あまり指摘されなくなってきています。

それが、いいことなのかよくないことなのかは判りません。

だって、演技というもの自体に天井はありませんものね。

指摘されなくなっていると言っても、あくまで今回の作品での今回のスケジュールでの今の段階ではなのだという事は理解しています。

(それにもちろん、波はありまくります。)

それなので、ちかごろのわたしは、その先の課題について、考えています。

入団当初は、「わたし」だと思っていた。

少し前には、「わたしとあなた」だと思っていた。

ちかごろは、「わたしと、あなたと、みなさまと、その空間」なのだと思います。

いざ、演技に入ると、「わたし」すらスッカリ忘れてしまうのですが。

わたし×演劇・・演技。

において、楽しく取り組む方法が判り始めています。

それなので、ちかごろのお稽古は楽しいです。

楽しく取り組む方法が判ったのか、自分という役者の取り扱い方が判り始めているから楽しいのかは判りませんが。

まぁ、両方なのでしょうけれど。

今月で、たしか入団半年です。

これまでずーっと「わたしは素人ですので。」「わたしに力はありませんので。」という気持ちを抱え続けていましたが、「わたし上手い!」とは毛頭思いませんが、「役者としてのわたし、わたしでいいのかも。」と自信みたいなものが生まれつつあります。

技術ではなく、スタンスに自信がついてきたと言えるかもしれません。

劇団さあもんでは、いい経験をさせて頂きました。

ありがとうございます。